高校の勉強を効率的に学ぶ、教える

 家庭教師をしていて一つ思うのだが、高校の勉強とは言語科目である。即ち教師が教えるのは文章の置換の方法である。数学や物理や化学なんかだと数式という文字列が、英語ならアルファベットを使う文字列が、国語ならひらがなカタカナ漢字を使う文字列が意味を成すことで問題を成している。答えの大半は敢えてわかりにくくしてあるものをわかりやすいように言葉や式で置換することである。

 したがってどの教師も意識的にも無意識的にもこの置換方法を一生懸命教えるのだが、一定の割合の人間は成績が伸びない。

 学習障害の人間は別としても、高校はその人間のレベルに合った高校に行くはずなので、そこで何もできないというのは何故だろうか。と思った時、そもそも勉強以外の教育における格差がより差として現れやすいのではないかと思う。家庭環境などでこれは如実に差が出ると考えられる。ある意味常識力みたいなものの差と言っても良い。

 昔、国立大学附属の教育研究校に通っていたのだけれど毎年教育研究大会というのがあってたくさんの先生が熱心に授業を観に来る。だがしかし、そこに選別されている人間というのはそこそこ家庭が裕福でその年齢に対する知的能力はかなり高めの児童や生徒やたちである。

 極端な話このような理想化された教室というのを見るのは無意味である。全学校の1%くらいにしか成立しないだろう。そんな母校だが自分が卒業した数年後に学級崩壊が起きて、在学当時よく世話をしてくれた先生は鬱になってやめてしまった。そんな学校ですら、普通の学校が日々直面する危機と隣り合わせである。

 大分話がズレてしまったが常識力を唯一埋められる手段は読解力の獲得である。文章をわかりやすく置換できる力というものがあれば新しい知識を手に入れる事はそれほど困難ではなく、また知識無しで得点できる問題も増えるのである。

 なんか何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、学習が伸び悩んでいる人間はまず現代文と社会科をしよう。

 

国語の時間青チャート解いてた たかたか。