あいらぶ技術立国

 実は好きなひとがいる。とかブログで言い出す明け方だがそれほど本気でもないようやそうなような。高校時代の方がずっと恋愛にはストレートだったかもしれない。結局身近にあるものに対しては熱くなれても限りなく遠いものには冷めた目でしか見れない。人間そんなものである。あ、別に高校時代にそう言うものが身近だったわけではない。一応注釈しておく。

 さてそんな話はどうでも良くて結局共感とか逆に反感すらも身近に感じるかそうでなくてもテリトリーの中にいる人間に対して思うことなのだろう。

 その点人種差別とかの構造はよく出来ていて大半の差別主義者は差別主義者ではない。単に無関心なのである。いじめだな何だのそういう社会では人間の無関心さを利用するようなシステムをうまく作っている。まあそもそもあらゆるものに関心なんかを持っていると神経衰弱になるだろう。たまにとんでもなく元気で多趣味な人間もいるけれどどう見たって極一部分の人間の話である。

 こう言う大学にいるとつい勘違いしてしまうことは、一般に大学という組織は関心を持たれている、と言う前提である。特に大学の先生やらそう言う人たちはその前提が強くある。ただ実際はそうでもない。日本の大学進学率は50%くらい。毎年多額の税金が教育や研究に注がれるが結局上位50%やあるいはそれ以上に厳選されたエリートに対する再分配が大学教育や研究である。

 そういう意味で高額所得家庭にとってはこれほどラッキーなことはなく、彼らが取られた沢山の税金は大学の運営費用として彼らに重点的に還元される。義務教育のように全員に均等に配られるわけではないから見方によっては大きな税金はその後の本来的に掛かる教育費を前借りしているとも考えられる。

 逆に大学進学率が低い低所得者層にとってそれほど大学という組織に関心が持たれるということは少ないだろう。大学の研究のために予算を増やせとか教育のために予算を増やせという提案が一つも通らないのはそのせいである。口では技術立国と言っていても結局のところそんなところに予算を割いても取れる票はたかが知れているわけで単なるアピールというわけである。

 そういう意味で大学にいるということは恐ろしく感じることもある。ところで今最初の文章見直したら好きな人どうこうという話をしていたのだが何でこの話なのかさっぱり分からない。

 

文脈に無関心な たかたか。