自分勝手に教師論

 家庭教師をする上で一つ気づいたのはこの指導の結果、相手はどう適応するか、ということである。教師の仕事というのは、必ずしもわかりやすく噛み砕いて教えることではない、ということだと思う。

 もちろん様々な理由で家庭教師を取る家庭がある。中には発達障害を抱えた子供などもいる。そうした子供の中で特に学習障害がある場合はそもそも学校の進度や受験以前に、どこまで終えられるか、という勝負になる。こうした子供は学習という行為が単純に向いていないタイプの人間なので、社会における一般的な成功を狙う、つまりは学歴社会を勝ち抜くことはほぼ不可能である。家庭教師の仕事は彼らに最低限の知識や教養を学ばせ、社会人やあるいは次のステップにおける自立支援を行うことである。

 個人的な意見だが子供というのはあるいは若い人間なら、特定の人間のイデオロギーに染まりやすい。こういう無知で何もない期間にうまく調教するのが教育である。別に学習障害でも何でもない生徒への家庭教師の最終目標は生徒にイデオロギーを植え付けることである。あるいは学習障害の相手であってもそうである。最終的には家庭教師な意見を組み入れ自発的な学習を促さねばならない。

 だからこそ噛み砕いて教えることは必ずしも正しい事ではない。生徒のペースに合わせても生徒のためにはならないのである。と、教授達をここまで擁護するような文章を書いてきたがいくらなんでも講義は日本語でしてほしい。学生のペースに合わせる必要は全くないが、乖離してしまえばそこで授業としては価値を失う。

 

なんなら日本語理解してない たかたか。