社会に生かされている

 人が社会で生きる時、社会からある機能を与えられる、というのがこのブログで書いている時の思考の基礎にある。

 それは不本意に与えられることもあるし、望んだものが実現されるものもある。例えば男女という性別は不本意に与えられる一つの機能である。生物学的に、出産という機能は女体にしか付いていないし、逆に人間である以上男体の生殖機能も無ければ子供は絶対に生まれない。生まれた国や、親、会社等他にも様々な条件がありそこでの社会での一機能を果たす。

 いじめですら一つの社会的機能の集積の様態である。いじめられる人間というのはある社会において社会の標的となることで、それ以外の人間に矛先が向かないようにする機能を不本意に負った存在である。逆にいじめる人間というのは敵を作ることで集団の団結を促す機能を与えられている。だからいじめもいびりも、減らせても完全には無くならない。

 救いがあるとすれば違う社会集団に入れば自分の社会的機能を変更できる可能性があることである。ある形質はその社会で忌み嫌われるものでも違う社会であれば認められやすいかもしれない。あるいは違う社会集団であれば他の形質がピックアップされることで新たに違う機能を付与される可能性もある。

 例として人を殺すことになんの抵抗もない、という形質を持った人間がいるとする。こういう人間が日本にいると大問題であるが、ソマリアやシリアならあるいは認められやすい形質の可能性もある。最も認められにくい形質ですらそれに適合し得る社会は確実に存在する。

 進学を繰り返す中で高校、浪人、大学では目まぐるしく社会から与えられた機能は変化した。かつて個人主義を貫けた自由な人間も今は一応多少の制約はあるわけである。与えられた機能が小さいほど自由に過ごせるけれど結局自由すぎるのも制約されすぎるのも良くないから程々な社会集団というのをうまく見つけるかあるいは社会集団内で、程々な機能を確立することが常に人生の目標になっている。

 

今までのブログをまとめた たかたか。