衆愚

 学生の自由が制限されている、とコロナ禍では言われている。現に文句も出ているそうであるが、とんとこれが運動になる事はない。憲法に書いてある通り自由は与えられる権利でもあるが保持する事を努力しなければならない義務でもある。

 ところでかつて自由を掲げて大規模に暴れていた集団に中核派、なんてグループがある。今はすっかり廃れてしまい、確固たる支持基盤を失った彼らであるが多くの人間が参加したこの運動は大学という組織に対する失望感を与えていた事は間違いない。今の70をすぎ、受験生の間で伝説的な存在となっている予備校の講師は多くがこの時期に大学から抜け出した集団である。まああるいは放逐された集団とも言える。

 それはさておき、現代日本ではこのような大きい運動というのはあまり起こらない。要因は自発性が低い国民性等様々にあるのだろうが、この国の人間というのはSNSの発達に適応しすぎたのだろう、と思う。いつでも発信することができるメディアの獲得は逆にかつて日本に無かった多様性がもたらされた。ある種強制されて駆り立てられた中核派のような運動な参加しない自由が生じたわけである。

 ただこうした自由は変革を期待するが何もしない層を飛躍的に増大させてきた。最早今の学生に特定の主張を発信する力は弱く、意見を一本化できるような一貫性にも乏しい。呟いて適当にストレスを発散する奴隷になるのも至極当然の話と言える。

 

懐古主義の たかたか。