ダラダラと、演繹帰納

 最近個人的には忙しくさせてもらっている毎日である。バイトと名のついた賃金を稼ぐ労働を堪能させてもらえることは実に苦しく辛い。さてこんな忙しい時にはブログに言葉を残しておこうというものである。Twitterもそうなのだけれど文章を書くと救われる気がするものである。表現は人間にとって切って切り離せないんだろう、そう思う。

 昔々より、語りたいことを述べてきた当ブログであるけれど今回からは自身の演劇論?観について整理していきたい。当然、気が向かなければこの一度で終わるだろう、当ブログの企画である。タイトルにある通り演繹、帰納について喋る。とは言え今回語りたい事とは一つである。それは演繹法的思考は存在し得るか。というものである。

 人間は全ての現象を帰納的にしか語れないのではないかと思う。帰納的、とはつまり経験的、ということになる。演繹法は一つの公理から法則を導くという考え方になる?と勝手に思っているけれど、公理は実際の現象から導かれた確からしいものでなければならないというのは明らかで、であるなら全て人間の思考は帰納的であると言える。

 あるいはこうも言えるかも知れない。あらゆる人間の現象に対する思考はまず帰納的過程がありその後にのみ演繹的過程が起こる、と。

 演劇はどちらの過程が大事なのだろう。演出をした今でもわからないけれど、私はシーンに対する理論があまり無い。そういった意味で言えばイメージに頼った演技、演出をすることになるのだけれどそれであれば帰納的議論に終始していることになる。私は私の中で経験的なイメージの複合により確からしい公理を導き出すがそこからの膨らみは今一つ甘かった、つまり演繹的議論が出来ていなかった、と感じる。

 私が演出したトリガーは誰が何を言おうと最高の舞台だった。だがもっと良くできた、と思う。それは劇の完成度ではなくて自分の中の解釈や反芻において、である。私は私の中にもっともっと人間を描くべきだった。人間の奥底にある何かを知性により現してみたい。一つは見つかった気がするけれどどうもそれだけでは説明がつかない。

 

これが素面の文章の たかたか。