芸術、AI

 前回の演繹、帰納というのは永遠の課題である。が、少なくともAIが得意なのは帰納的手法である。AIはありと凡ゆる情報を並列的に統合するという側面で人類には及ばない領域が存在する。もちろんAIにもバイアスはあるけれど人間はAIほど同時に情報を処理できないため第一感が非常に重要になる。

 かつてAIは人間の技術職を終わらせるだろう、という予測を立てていた。要はロボットが作業した方がより正確に操作できるから人間など不必要になるであろう、というわけである。

 ただこれは案外逆なのかもしれない。最近の社会の傾向を見ているとより創造的な職業の方がAIに仕事を取られているとも思えるのである。創造的職業というのは誰にでもできるものではない。から人件費が非常に高い職業の一つである。それゆえに高価なAIでも人間を代替するに値するならば導入されやすくなるだろう。また、創造的職業というのがAIに向いているというのもある。最初に述べた通り、AIは無秩序に学び無秩序に出力ができるという人間にはできない強みが存在する。勿論AIが学んだ情報が偏る可能性もあるのでバイアスがかかる場合もあるがヒトほど強くはかからない。

 つまり単に芸術、というのが人の経験の重ね合わせとその出力に過ぎないのだとしたらAIは容易に我々を代替する。何の感情も存在しないような全くもって機械的な芸術に我々というのは勝てないのかもしれない。

 一方でブルーカラーなマニュアルをこなす職業というのはこれからも残り続けるであろうことを私は確信している。これは技術的な側面ではない。AIを導入するよりも人間を安くこき使った方が安く済むからである。将来にAIに代替されたくなければ私たちはより悪く安い労働条件で働けば良いのかもしれない。まあそんなのは嫌だけれども。

 

結局fireしたい たかたか。

 

ダラダラと、演繹帰納

 最近個人的には忙しくさせてもらっている毎日である。バイトと名のついた賃金を稼ぐ労働を堪能させてもらえることは実に苦しく辛い。さてこんな忙しい時にはブログに言葉を残しておこうというものである。Twitterもそうなのだけれど文章を書くと救われる気がするものである。表現は人間にとって切って切り離せないんだろう、そう思う。

 昔々より、語りたいことを述べてきた当ブログであるけれど今回からは自身の演劇論?観について整理していきたい。当然、気が向かなければこの一度で終わるだろう、当ブログの企画である。タイトルにある通り演繹、帰納について喋る。とは言え今回語りたい事とは一つである。それは演繹法的思考は存在し得るか。というものである。

 人間は全ての現象を帰納的にしか語れないのではないかと思う。帰納的、とはつまり経験的、ということになる。演繹法は一つの公理から法則を導くという考え方になる?と勝手に思っているけれど、公理は実際の現象から導かれた確からしいものでなければならないというのは明らかで、であるなら全て人間の思考は帰納的であると言える。

 あるいはこうも言えるかも知れない。あらゆる人間の現象に対する思考はまず帰納的過程がありその後にのみ演繹的過程が起こる、と。

 演劇はどちらの過程が大事なのだろう。演出をした今でもわからないけれど、私はシーンに対する理論があまり無い。そういった意味で言えばイメージに頼った演技、演出をすることになるのだけれどそれであれば帰納的議論に終始していることになる。私は私の中で経験的なイメージの複合により確からしい公理を導き出すがそこからの膨らみは今一つ甘かった、つまり演繹的議論が出来ていなかった、と感じる。

 私が演出したトリガーは誰が何を言おうと最高の舞台だった。だがもっと良くできた、と思う。それは劇の完成度ではなくて自分の中の解釈や反芻において、である。私は私の中にもっともっと人間を描くべきだった。人間の奥底にある何かを知性により現してみたい。一つは見つかった気がするけれどどうもそれだけでは説明がつかない。

 

これが素面の文章の たかたか。

友人の卒業に寄せて

 予備校に通っていた頃は高校生としての自分のピークだったかもしれない。自分の精神年齢を振り返った時に19で浪人したあの頃にようやく精神的に高校生になった気がする。

 浪人は全てを変えた。元々高校生の私は他人と群れる方では無かった。個性やキャラクターという言葉に逃げる無個性な孤立した人間に過ぎなかった、と高校生当時を振り返って思うのである。ある意味引き摺った中二病であった。これが許されたのは高校当時の閉鎖的環境に他ならなかった。今思えば浪人時代の友人というのは新しい風を吹き込んだ存在だった。

 ただ今年卒業していく彼らとそれほど仲が良かった記憶もない。予備校を卒業していき大学に入って改めて会って、特に四年ぶりにあったかつての学友とは数十分カフェで話しただけだったけれどもなんだかある意味予備校時代もこうだったなと思い出すいい機会であった。予備校で会い、一緒に昼ごはんやおやつを食べたり、勉強したくない時は講義を切ってしゃべっていた。私は話題を提供するのがそれほど得意では無かったからそれほど盛り上がってしゃべることはできなかったのだけれど。

 久々の更新をしてみたのだけれど特に何か言いたい訳ではない。というより何が言いたいのか分からないが、とりあいず書いて記録を残しておきたいので書いている。気づけば大学に入り四年が経った。実感が湧かないけれどこんな風にして時はすぎていくんだろうと思う。いずれにせよ卒業する予備校同期達とまた数年が会えたら良いなと思う。

 

久々の たかたか。

16タイプ性格診断と発達障害

 16タイプ性格診断をご存知だろうか。世の中の陽キャとか言われる部族の集まりや女子会等では酒でも飲みながらワイワイやるのかもしれないがまあ著者はそんなものとは無縁であるからいつものように1人でやってみたわけである。

 はてさて結果はENTP型となった。日本人だと非常に少なく、団体行動を苦手とするタイプらしい。また一つ社会への不適合証明が為されたことにはもはや笑うしかない。短所の特徴が悉くADHDと重なってしまっており、やはりそう言う特性を持って生まれてきたのだろうなぁとは思う。

 発達障害学習障害が生じない限りは個性の範疇に留まるものであるから、結局著者が持っているのは個性、と言うことになる。就職しなければ、ではあるが。昔人に話して共感されなかったのだけれど自分の中にはもう一人勝手に動いている自分がいる気がする。そいつは集中が切れると徐々に現れ始める。そうなると授業中であろうと仕事中であろうとそいつが頭の中に一杯になってとても目の前のことをできる状態では無くなる。夢うつつというか妄想が膨らんだり、過去の映像が走馬灯みたいに流れてくることもある。

 小学生の頃それが普通だと思っていたがおそらく周りはそうではなかったのだろう。話した人にもそんなことは無かったと言われた。もう一人の自分は年々抑圧されてきている気はする。これも一つの心理形成なのであろうか。完全にそいつが抑圧出来れば普通の人間になれるのか。いや結局それ以外の部分でそれは無理なのか。そもそも普通の人間とは何か。16タイプ性格診断で最も多いタイプの人間は普通なのか。

 

ブキッチョな たかたか。

演劇の終わりに。

長い一ヶ月の後、最後の締めのスピーチでびっくりするくらい簡単に涙が出てしまった。何の感情で涙が出るのかはよくわからない。自分はよく怒られたら泣いてしまうのだけれど別にスピーチは怒られているものでも無い。結局涙が出てくる所にとんと見当もつかない。いつか感情分析できれば良いと思っている。でも何か言葉にし難い何かが漏れ出てくるようなそういう気持ちである気がする。

演劇は人間を作ると同時にシーンを作る芸術でもある。リアリティと同時に、非現実も描かねばならない。どこまでが現実によった具体的な表現で、どこからは演劇的な抽象的な表現なのか、というのは時代でも人間でも異なるのだろうとは思う。キャストと話し合う中で揉めるのはいつもその内容であるし美術、照明、音響も同じくである。そして最後は理論武装抜きにお互いのシーンのイメージで争う事もある。結局どこまで行っても直感のぶつかり合いであると思った。

言葉にならない感情だからこそ動きが出るしそれを演劇で表現するわけでまあ改めて考えると面白い世界である。演劇にはミュージカルのようなド派手なものから人のドラマを描く演劇部で今回やったような演劇やら色々な種類のものがある。古来、日本に伝わる能や狂言などもそれらの一環だけれどこちらは見たこともやったこともまだ無い。素晴らしく眠いらしいがいつか観劇程度はしたいものである。

 

泣いたのは僕だった たかたか。

公演に向けて。

お久しぶりです。

来たる十一月三日、京都府立医科大学図書館にて自分が演出(総合監督)を務めさせていただく公演が施行されます。

堅苦しい文章を途中まで書いてやめた。結局久々にする趣味を格式張ったようにしても仕方ない。人生常に等身大が肝要である。再び演劇に取り組み始めて気づけば一ヶ月を超えた。まあ公演というのはいつもそういうものである。感想を今書いたところで少し早すぎるので今日は書かないけれど、やはり長いようで短かく、そしてあまりに長い期間であった。とにかくこの公演がうまくいく事を演出として祈るばかりである。

そして何より三日当日多数の観客に、自分の演劇を見に来てもらえる事を願っている。お願いします。

 

久々に、ささやかに、願う たかたか。

 

お酒解禁初日

 今日は居酒屋のお酒の提供の解禁日だったので早速行きつけのお店で飲んできた。立ち飲みやなのにも関わらず一人当たりの会計が5000円を超えてしまったことを寝起きの今思い出して絶句している今日だけれど、今の問題点は寧ろ意気投合した知らないやつの家で寝ている事と言える。

 まあとりあいずこの問題が大きすぎて他のことが何も考えられないので今日はここで終わりにする。