配慮の効いた文章を書く

 ルーティンをこなさずして満足して寝てしまうということも起こる。例えば昨日のブログ更新というのがまさにそれでせずにそのまま寝床についてしまった。しかしまだ間に合う。太陽が昇るまでは昨日、と定義する。少なくとも太宰治走れメロスでは日が沈むまでを一日と定義していたから、逆に考えれば日が昇るまでにブログを更新すれば無事にセリヌンティウスは解放されるという訳である。

 さてメロスは羊飼いであり、障がいを持つ妹を持っている。今の世の中では障害と書くと、マナー講師が飛んできて批判するのでやはり障がいと書かなくてはならない。正常の範疇を超えた肉体的、あるいは精神的形質によって生きる上で支障が出ている人たちのことを障がい者と言う。

 ところでこんな風にいちいち説明しなくてはならないのは何事にも極めて苦痛である。インフォームドコンセントなんて言葉がある。つまり患者に自己決定権がある訳である。だから医者というのは懇切丁寧に説明してたくさん難しいことが書いてある紙を渡して患者に何らかの選択を迫る。おそらく大半の患者にとってむしろ苦痛である。自分は父が医者であるが、自分は昔から医者というのは魔法使いだと思っている。具合が悪いと父にああだこうだと言いそれに対して父もいくつかの質問を投げかけた後、よくわからない薬を飲ませたり、場合によっては針を刺して謎の液体を注入してきたりする。あるいはよくわからんと言い部屋に閉じ込めて特殊なカメラで撮影なんかをしてその後決めることもある。メカニズムは全くわからないがそれで治ってしまう。難しい説明よりも痒いところに手が届いてくれるのが患者としては最優先である。あくまで自分の感想であるが。と、これもいちいちこんなことを書いておかなくてはならない。

 現代は何でも説明が求められる。アメリカなんかだと結婚はおろか性行為に至るまで同意書がある場合もある。曖昧さのない社会というのは実にしんどく息苦しい。

 

邪智暴虐に激怒した たかたか。