人生戦略論

 自分は言葉が汚い方で有名である。結構すぐに、死ね、だの殺すぞ、だのそういう単語が出る。これでも仁義なき広島県民の端くれなので仕方がないと言えば仕方がないが高度なプロフェッショナリズムが求められるらしい社会においてはおそらくそれは望ましくない。

 世の中にはヘイトスピーチというものがある。特定のグループや人間に向かって死ねとか消えろとかこの国から出て行けとか言っているなら明確なヘイトスピーチであると言える。例えばこのブログで朝鮮人は日本から出て行けとかバカチョンに鉄槌を、など言っていればブログ閉鎖ものである。つまり在日朝鮮人に対して過度なヘイトスピーチをすることは今の日本では少なくとも好ましい行為ではない。

 アメリカの前大統領はトランプだが、彼にはヘイトが許されるらしく、とんでもない中傷で溢れている。この場合は個人攻撃だから良いのか、よくわからないがとにかく一種のヘイトスピーチをメディアも認めている。アメリカの反トランプデモなんかを見ると、見るからに過激派がたくさん集まってデモをしている。

 つまりはヘイトは時と場合により許される環境が存在し得るという訳である。うまく共通の敵を作ることで社会に集団を形成することができる。知的な人はあれはヘイトでこれはヘイトじゃない、と主張する。だがヘイトスピーチとは様態を指しているのであってその目的が正しいか間違っているかとか崇高か低俗かとかで決める物ではないだろう。

 うまく立ち回るにはヘイトを自分以外の誰かにうまく誘導する必要がある。社会の鉄則であるがこんな記事を書いていたらヘイトを向けられるのはどうやら自分になりそうである。

 

見ざる言わざる聞かざる たかたか。