諸君の人間的価値。

 時間がない時こそいい文章が思いつく、なんて書いていた脚本家がいたが、そんなはずはないと思う。やっつけな記事というのはどうしてもブログの質というもののレベルは落としてしまう。時間がない中でよくここまで書けた、と自己満足しているだけであって本質的に良いものが書けているかは別問題である。

 芸術の難しさ、というのはどの観点から評価されるべきか難しいというところである。書いている人間が評価して決めるのか、或いは周りの人間が決めるのか。一般的に芸術家肌と言われる人は自己満足にこだわるが、各々の物理的価値というのは他人が決めている。有名な作者が書けば本人から言えば駄作でも読者から見れば秀作である、という風になることもある。

 自己評価、というのも同じである。学歴など意味はないという考え方もあるが、他人の評価というのはほぼ見た目、学歴、職歴で決まる。自己評価、というのはあくまで自分の本質をこれだと思い込んでいる総体に過ぎず、他人にとってみれば、学生という身分の人間から見た目や学歴というものを取り上げると、その人のプロフィールというのはほぼ説明不可能である。せいぜい日本国民であるとか米国の市民権を持つとかそういうレベルの話しかできないだろう。

 性格があるじゃないか、という声もある。ある人への性格の判断は、その人の本来持つ性格が物理的に発露された行動を、評価者が評価者の常識と照らし合わせて勝手に判断して決めている。つまり性格いいね、というのは行動がその評価者にとって理想的なだけであって性格が判断されているわけではない。行動への評価である。例えばある人がSMプレイが好きであったとする。真面目に言われるとドン引きであるが、こんな人も風俗でその性癖をこっそり発散しているだけなら他人にはそういったことは露見しない。

 人生は学歴ではないという声もあるが、他者というのはそんなに丁寧に自分を評価してくれるわけではない。学歴など関係ないと言う人間は自己評価が高く、いい意味でも悪い意味でも芸術家肌である、と言えるのかもしれない。

 

格式と歴史を重んじる たかたか。