立て看板のキャパシティ

 肌荒れがひどく、抑圧感も大きな日常でまああまりバイトなんて入れるものではないなと感じている今である。お金は与えられる家庭であるせいか、精々食費にしかお金を使わないせいか、バイトでお金をもらうという行為に大きな意味を感じることはなく、シンプルに仕事量が多い日はストレスが溜まる。あるいはキャパシティのようなものが小さいのかも知れない。まあそれでもお給料もらうのは嬉しいのだけれど。

 あまり自分の大学を批判しているとどこからか監視の目が飛んでくるので鴨川の向かいの大学の批判でもするかと言いつつ、あんまり部外者がどうこう言っているとそれはそれで怒られそうなので批判はしない。

 立て看板というやつのお話である。近頃の京大はこれが気に入らないのか延々と設置されると即撤去を繰り返している。まあ合法性があるのは土地の所有者の京都大学であるのは間違いない。しかしずいぶんと寂しいものである。京都大学の学風というのは自由が強調された大学のはずである。百万遍のあの付近の立て看板の写真を見ると如何にもアジア的で良い。近代的建築に対してごちゃごちゃと色々なものを取り付けている。なんというか欧米の大学にはないであろう良さがある。

 国際化しなければとか厳しく学生を指導しないとだとか色々なことは考えているのだろうし真っ向から否定することではないのかも知れないけれども単純に画一的な処置は寂しいという言葉でしか表しようがないだろう。

 一つの文化が失われつつある中でマイノリティ達はどう生き残っていくのか、あるいは立て看板の伝統は潰えるのか、見ものである。こういう抑圧的なゴールデンウィーク、何か面白いことを起こしてくれる人がいないかなとそう思うばかりである。

 

権力には逆らえない たかたか。