非皆勤者承認欲求

 皆勤賞は最近批判されることが多いらしい。皆勤していることを表彰するのは、例えば病気でも学校に来ることを助長する、あるいは必ず行かなくてはならないという精神を助長するなんて事が言われている。

 自分は昔から本当に学校に行くのが苦手であった。朝起きるのもしんどいし、こんな面倒なことを他の人がなぜ出来るのか、それもわからなかった。そもそも授業も大して聞いたことも無ければ、通算でも殆ど宿題を出せたこともない。まあこのブログを読んでいる人ならそんなことは知っているだろう。

 ただそういう人間からして皆勤賞が表彰されるべきではないかと言われると全くそうは思わない。皆勤自体はそれなりに頑張らなければ達成できないことであるし学校生活というプロセスを評価する上で一つの指標になり得るだろう。自分が頑張ってないことやあるいは運が悪くて表彰されないなんてことはザラにあるわけで皆勤賞もそういうものの中の一つである。休みたければ勝手に休めば良いのだ。

 インスタやらTwitterを見てもそうだけれど人間は自分の我が儘に対して共感を得たい存在なのだと感じる。承認欲求とでも言うのだろうか。インスタでよくある◯◯じゃダメですか?みたいな構文作ってる人の大半の意見は、いやそれが認められるか認められないかは場合によるやろ見たいなものも多い。

 ゆたぼんとひろゆきの対決も面白い。ゆたぼんの父親に批判が集まっているが、批判している人は大半がゆたぼんが羨ましいだけではなかろうか。自分は頑張って学校に行ったのに、学校に行っていないゆたぼんがもてはやされるのが気に食わないと言う感情が先行しているように見える。学校に行ってない人でもいくらでも成功する方法や、人生を幸福に生きていく方法はあるわけでそれを否定したら今度は学校に行けない人も否定しかねない議論になってくる。

 まあ、当のゆたぼんも、人生は冒険や、という真理はついているが、恐らくゆたぼん本人は全くその意味を理解していないだろう発言をしているけれど。本当、人生は不確実さの連続である。

 何もかも、全てにおいてこうすれば良いなんて事はない。医者になれば何とかなるなんて嘘だし、なってからどうするかという職業に変わりない。自分が認められる場所に行くしかないしあるいはそう適応するしかないだろう。結局のところローマ市民であればローマ法が適用されるようにある環境にはある条件があるしそこで生きていかねばならない。ゲームなら理解できることは現実にはあまりに難しいのだろうか?

 

不登校医学生 たかたか。