ランチにコーヒーをつける

 今日もいつもの店でランチを食べていると、話題は緊急事態宣言が解除されるかどうかでもちきりであった。その店は元々居酒屋であり、ランチもしているというお店なので常連は自分のように昼から来る人よりも夜に来る人の方が多いから当然お酒が出ることをほとんど全員が待ち望んでいる。

 戦中以来の厳しい国家統制もようやく終わりとなるかどうかはさておき今日は店でアイスコーヒーを食後に頼んだのだけれどカフェインをとりすぎたせいか変な気分になっている。微妙に昂って寝れないというやつであろうか。バイト前に昼寝をしようと思ったのだけれどどうも寝つきにくい。コーヒーがぶ飲みはバイト前には良くないと学んだものである。

 ところでコーヒーのカフェインの強さというのは店やら淹れ方やらでずいぶん違う気がする。今日飲んだものは豆の状態のものを手回し挽き器で挽いて粉末にして淹れてくれたものなのだけれどこういうタイプのものはカフェイン濃いめなのかそれとも単純に量が多かったのかテキメン効いてくる。一方でインスタントでもらうものはこれよりは効かない気がする。単に気分の問題なのかインスタントではカフェインの抽出処理がされているのか、それとも単純にコーヒーに対する割り水の量の問題なのか真相は不明である。

 と、グダグダ考えていると今日も夕方でバイトの時間が迫っている。少しでも寝たい。

 

寝て超回復する たかたか。

 

DJ社長

 レペゼン地球とかいうDJ集団をご存知だろうか。まあ調べてみればわかる通り福岡出身のよくわからん集団なのであるが、まあ最近話題になっている。というのも本人の音楽活動というよりは事務方での問題である。

 どうも事務所の経理が横領したとかしてないとかで裁判になっているらしい。経緯を聞くと当時文無しだったレペゼン地球のリーダーが新しく会社を建てる際に、百万で株式を今の経理の人間に引き取ってもらったらしい。つまり社長がレペゼンのリーダーだが、経理が100%株式を保有している会社ということである。まあもう如何にも問題が起きそうな構造である。

 そもそも面白いのが当時の何処の馬の骨かもわからないようなレペゼンのリーダーに対してポンと百万出せた経理の人間もすごい。芸能事務所なんか相当うまくいかないと開店休業が落ちなのによく出したものである。

 そんなことはさておき経理を人任せにするというのはやはり怖いなとなった。よく結婚でも片方が管理してお小遣い制度を採用する場合があるがあれも一緒で非常にリスクを伴う選択である。現代の離婚率を見れば夫婦が最後まで添い遂げる可能性は結婚する時に思っているほど高くはないのだから、夫婦である以上統一の口座は必要であろうが、使い方や管理は考える必要があるのだろう。

 なんて結局結婚観に持っていってしまったが、本当に28で結婚しようと思うとかなり時間が短くなりつつあるのでそんな風に選り好みをしている場合でもないのかもしれない。

 

内心焦っている たかたか。

 

三大料理

 世界三大料理とは言うけれど中華料理は別格であると言う気がする。どこの国で食べてもハズレは引きにくいのではなかろうか。

 三大料理とは現在における広く普及した料理というよりは多様な文化の融合が重視されている。フランスならナポレオン時代にヨーロッパ各地から持ち帰った食文化、トルコならイスラム正教会カトリック文化の融合、中華はその最大領域を獲得したモンゴル帝国時代にはヨーロッパと接続しており、そうでなくとも四川、上海、北京など他で言えば国レベルの都市での文化がある。

 とはいえ食事は頭で食べるものではなくて舌で味わうものなのであまりこういう事実は関係ないのだが。要はうまいという事実が最も大事である。本当中華は高いものから安いものまであって手軽に作れる料理も多く、家でも店でも、はたまたコンビニですら美味しいので最高である。

 一つ注文しておくと麻婆豆腐という料理があるけれどあれは辛さ控えめが個人的には好きである。辛さマシマシよりも醤油味噌ベースの味がした方が個人的に安心するからである。

 

最近更新が遅い たかたか。

 

性交渉可能年齢

 民主党の議員が性癖を露出するような発言をして物議を醸している。50代の男が14歳の女子と性交渉をして捕まるのはおかしいとかなんとか言ってしまったらしい。本当、自民党が自爆してくれているのだから何も言わなくても支持率が伸ばせる状況で勝手に討ち死にするのが日本の野党であるがそういうのはさておき、実際この議論というのはどうなのだろう。

 中高一貫の共学で自由な学校だったから結構な割合で性交渉してる人は特に高校ではいた。高校生というのは16歳くらいからなのでそれ以下は中学生ということになるけれど中学生でそういう経験がある人がいたのかいまいち知らない。下らない下ネタで盛り上がる年齢ではあるが、誰と、誰が、というのはあまり聞かなかった。若干経験ありそうな人はいたけれど要はヤンチャな人とかと仲が良いとかそういう人たちくらいではあった気がする。もちろん自分が恋バナみたいな話はほぼしないしされないというかまあするほど仲が良い人もいなかったので実際のところわからないけれども。

 ところで今回の議論は、中学生以下で同意が成立するかどうかが焦点らしいけれどもまあ良いんじゃね、となる。結局何歳で初体験みたいなものをしても後悔する人はするだろうし満足する人はすると思う。適切な機能を持つ年齢に達していないと生殖器が傷つきやすいくらいが懸念事項だろう。50歳のロリコンジジイだろうが、16歳の部活の先輩だろうが29の教師だろうが、別に誰と経験するかは自由で行為そのものにそれほど違いがあるとは思えない。同年代同士なら良いのかというそもそもの議論もある。

 犯罪云々という話にもなるけれど、犯罪は犯罪で取り締まれば良いわけでおっさんが中学生引っ掛けるのはかなりキモいという以外特に問題があるとは思わない。まあそれを国会で堂々と言われてもドン引きなのだけれど。

 

あんまり詳しくない たかたか。

 

 

 

インキャ増えすぎてる

 とある調査によると日本人の若年層で自分のことをインキャだと思う人は六割から七割に上るらしい。客観的に言ってかなり高いだろう。

 SNSの発達により、陽キャの基準が上がった今はともかく老年人口でも男性は半分くらいは自分のことはインキャだと感じているとのことである。というわけで指標を信じるなら、ここ日本では世の中の半分以上はインキャということになる。

 そんなにインキャな人間の割合は高かったかどうかは分からないが特に男性で高いとはどういうことなのだろう。

 なんとなく上の世代の人間で男性で自分がインキャだと思う割合が高いのは男性の方がかつては社会的な生き物だったという理由が大きい気がする。つまりは学校だけでなく、会社等を通じて、均質でない人間をたくさん見てきた結果が自身をインキャと自覚させやすくしていると思われる。

 営業なんかを見ていると上手い人はだいたいみんなそもそものテンションが高く、手八丁口八丁というか流石な印象を受ける。トップランナーの人の多くは陽キャな感じを受けるし、総合職で入社すると出世するためには必ず営業もするので、そういう優秀な同期を見ていると自分のインキャを自覚するのかもしれない。

 ということは世代が上がるにつれて自分のことをインキャだとは思わない女性が増えるのは単に社会性とかの問題なのではとも思える。ということは指標に現れていないだけで日本人のマジョリティはインキャであるとも思える。

 ところでここまで陽とかインキャとか言ってきたのだけれどこの概念を言葉で定義するのはめちゃくちゃ難しい。発信力のある人は陽かもしれないけれど最近はインキャな人でも伸びる人はたくさんいる。結局雰囲気とか自覚が決めるのかもしれんなというどうでもいい結論になった。

 

ヨウキャになりたい たかたか。

御陵から安土の風景

 45キロを歩ききった時は既に足裏と靴がフィット感を失っており兎に角足裏が痛かったのを覚えている。今回は企画で京都の御陵から滋賀の安土まで徒歩で移動する大人の遠足をしたのだけれど同行者は途中で疲れ果てているものあり、ギラギラと異様に光る眼をしているものあり無茶苦茶であった。

 歩いていて気づいたのだけれど単調な景色というのはこのような場合において最悪でとにかく延々と小麦畑と田んぼが続いた時は死にそうになった。街並みが面白かったのは大津くらいなのでここを出ると本当に何もなくて、駅前以外は何もないような場所だから延々と次の街を目指して歩くことになる。

 街というのがどれだけ良いかというと建物が過ぎて行くごとに歩いているという実感ができるし、コンビニなんかで飲み物も買える。目的地に歩いていて次の休憩場所のコンビニまで3キロ先であり、周りは全て田んぼということにはならない。

 ところで近江八幡とか妙にお好み焼き屋をたくさん見た気がするのだが何故なのだろう。滋賀は大阪のベッドタウンになっているというからお好み焼きが好きな人種が多いのかもしれないが果たしてこの推論は合っているのだろうか。

 

結構歩いた たかたか。

プーさんの精神鑑定

 プーさんで精神疾患の診断ができるアンケートみたいなものがあって早速やってみたのだけれど最早当然の如く注意欠如の傾向が出ている。多動と怠惰はどちらも強い謎の状態でその性格診断では判定はできなかった。

 というまあばらつきの出やすいこういう診断はさておき、幼児期にすでにこうした傾向があったし病院でもそう言われていたからそれほど驚きはない。結局、人間は環境への適応と教育によってあまりこうした個性に関係なく平均化されていく。とはいえ自分が一般的に言われる、普通の人間、とはあまり見做されないが。

 人間というのは難しいもので社会に入るにはゼネラルな形が必要になるが社会で認められるにはスペシャル性も持ち合わせていないといけない。就職活動にせよ何が特技なのか自分を見直す必要が生じてくるわけである。結局世間とか社会とかいうシステムはうまく出来ていて、まず見込みのないものや扱いづらいものを切り捨てて、次に見込みのある人間や扱いやすい人間を見極めるというわけである。人間も市場で売られる野菜だの魚だのと大して変わらず、形が不揃いなものは最初に捨てられて均一化された後、消費者はフレッシュだとかなんとかで更に見極めを図るわけである。

 選ばれるのに見た目や新鮮さが大事なのも食材と共通な点ではあるが、最近は特にこのシステムが批判されている。

 ただそういう平等な社会に持続可能性はあるのだろうか。内面が大事だという意見があるけれど内面とは何かとはいつも考えさせられるものである。

 

早起きして書いている たかたか。