阿呆になりたい羊

 結構感情は顔に出るタイプで嘘はつけない方である。あるいはつく必要のない環境が長すぎてすっかり厳しい環境を生きていくには牙もツノも足りない羊のような人間である。こうした、善良な市民の、自分にとっては文章というのは非常に便利である。

 言葉でどちらとも取れる発言というのはなかなかに難しいが、あるいは文字であればかなり簡単である。こんなコミュ障みたいな事を言っていてもしょうがないのだけれども。英語で初めて受動態なる文法を習った時は何のことだかさっぱりわからなかったが、浪人中に駿台の講師が、英語は主格を必ず書かなければならないが受動態であれば主格を消すことができるので主語のない曖昧で柔らかい表現が可能になる、なんて言っていてなるほどと思ったものである。何にせよ和の心、大事。前の万札の顔の聖徳太子とかいうおっさんが書いた十七条の憲法にも和をもって尊しとなす、とちゃんと書いてある。

 はてさて世の中にはクレーマーなんていう人種がいて苦情を思いつく天才みたいな人間がいる。貴重な意見ありがとうございますなんて言ってる場合ではないくらい煩いのも少なくないのが困ったところだが勝手にクレーマー認定してくるやつもいる。

 ただ、主張する時に特定の人間や組織を一方的に批判するとクレームと取られやすいのかと思ったり。学年進級なんていう猿でも思いつかない奇抜な制度もちゃんと提示されているメリットに対して合理的なデメリットやあるいは相手が想定していなかった点を指摘する必要があるわけである。

 まあそれが通用するとも限らなくて結局は実力行使が一番爪痕みたいなものは残せるのかもしれない。医学部に来る時点で安全志向な訳でそんなアホなことができるようなタイプは稀有だろうが是非見てみたい。

 踊る阿呆に見る阿呆我らそれを端から笑う阿呆〜なんて歌詞があるが踊れる阿呆でありたかった、なんてね。

 

やっと米津の曲覚える たかたか。