あぁ、神さま。

 キリストには右の頬を打たれたなら左の頬を出しなさい。という言葉がある。相手の状況を受けいれ慮る必要がある、ということであるのだろうか、わからないがとにかく右頬を打たれて左フックを出すのはこの宗教においては望ましいことではない。

 そんなキリスト教だが、最もコアな思想として神の前に信者が平等である、というものがある。元々ユダヤから派生した宗教であるがユダヤ教では、ユダヤ人を神に選ばれた高潔な人種として定義しており選民思想の結晶のような宗教になる。キリストはこれに対する反発として独立していった宗教である。

 神の前に全ての信者が平等という概念はつまり平等という主張が成長していく上で大きな根拠になった。もちろん引用されたわけではないがこの考え方の具体的浸透に役立った。政教分離が進んだ国ならばそんなこともないがアメリカなんかだと未だに大統領は聖書に宣誓して大統領就任式を行う。

 ところでこの神の前に平等、というのは平等という概念を考える時、最もわかりやすい説明だと言える。平等はもう何度もブログで語ったが尺度が分かりにくい。何に対して平等なのか。どういう制度設計でも不公平感が生まれてしまうわけである。神の前にということは最も高いところからみて平等である。ということである。神は富めるものにも貧しきものにも同じだけの権利を与える。

 最近は平等に特に様々に尺度が持ち込まれてその概念の曖昧さが露呈してきている。これに対する明確な定義が定まることはまだ当分ありそうになく、集団間の闘争が続いていくだろう。

 

急に文体が変わることがある たかたか。