個性的個性派

 どこまでが個性になるのか、という問題が現代にはある。それは個性を主張することが許され始めた現代だからこそである。それは社会的に認められるのかあるいは認められないのか、それによって個人の自由度というのは大きく変わってくる。

 例えば同性愛なんかは良い例だろう。かつては認められなかったこの個性もだんだん受け入れられやすくなった。あるいはもっと身近には独身でも良い。あまり結婚をさせられなくなったのはここ最近の話である。とにかくいろんな個性を認めていこうという流れである。一方で例えば犯罪衝動や殺人衝動なんかを個性として持つ人間は様々な手段により社会から抹殺される。

 難しいことの一つとして思想に優劣は存在するのか、というものがある。ホロコーストが劣っており、自由平等が優れているのか。同性愛は許されるようになり殺人が未だ許されないのはなぜなのか。などである。

 絶対的な人が守るべき教義が存在すると主張する人同士が戦っているのがアメリカである。思想の優劣が判断される時誰が判断するのだろうか。今の時代はメディアがそれを決定しているが果たしてそれで良いのだろうか。何が正しいかを判断する時に何を持ってして判断するのか未だ疑問が残る。

 今正しいという判断を下した瞬間に他人は個性の侵害だと捉えるかもしれないのである。

 

個性を増幅させる たかたか。